
中国帰国者基礎知識
1.「中国残留孤児」
「中国残留孤児」の国家賠償訴訟が2007年に一応の終結を迎えたことにより、「中国残留日本人」・「中国帰国者」らの置かれた状況が変化した中で出てきた問いの多様化がみられる。
◆南誠,2016『中国帰国者をめぐる包摂と排除の歴史社会学』明石書店
2.養父母
多くの「中国残留孤児」は、日本人の両親が日本内地へ引揚げる際に生き別れとなっているケースが多く、その結果、生みの母親や父親ではない、中国人の養父母によって育てられている。
中国人養父母と、「中国残留孤児」との出会い方は様々で、直接引き取ったケースや、子供がいなかった中国人夫婦が養子を探していて、間に仲介人がたてられたケースなどがある。自分の子供のように大事に育てられた場合もあれば、いじめられたと証言している人もおり、様々である。
◆浅野慎一・佟岩,2019「中国残留日本人の生成過程における中国人民衆の実践と協働 : ポスト・コロニアリズムの視座から」『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要』
3.「中国残留婦人」
「中国残留孤児」とは異なり、1945年8月9日時点で、13歳以上の女性たちのことで、「中国残留日本婦人」の略称。その多くは、日本敗戦の混乱の中で、現地の中国人男性と結婚し、子供を産んだことで、当地に残った。
13歳という年齢の基準については、小学校卒業の年齢であるために、本人が中国に残ることを判断できた、というのが当時の厚生省援護局庶務課中国孤児対策室の見解である。
◆加納実紀代,2006「中国残留婦人とジェンダー」『中国女性史研究』
4.「中国残留邦人」/「中国残留日本人」
「中国残留孤児」と「中国残留婦人」を総称して、「中国残留日本人」と呼ぶ。彼女/彼らの多くは戦前・戦中に「満洲」へ渡り、日本敗戦後、中国に残った。同じように敗戦後に中国に残ったものの、1972年の日中国交正常化前に日本へ帰国した人々は、「引揚げ者」と呼ばれている。(「引揚げ」については、10で説明しています。)
帰国援護を担当している厚生労働省や日本政府の公式の呼称は、「中国残留邦人」であるが、「邦人」という言葉遣いには、彼女/彼らが生活していた中国という視点が消し去られてしまうという懸念から、研究用語としては「中国残留日本人」を使用することが定着している。
また、この「残留」という言葉に括弧が付けられている場合が多いのは、この言葉自体に自主的な意味合いが強く含まれており、敗戦時の状況が反映されていないとする立場を取っているからである。
5.「中国帰国者」
1972年の、日中国交正常化以降、多くの「中国残留日本人」が日本へ永住帰国をするようになった。その際、中国の生活の中でできた家族を帯同した。また、日本での生活の目処が立ってから呼び寄せた家族もいる。そうした、日本へ帰国した「中国残留日本人」やその家族を総称して、中国からの帰国者ということで、「中国帰国者」と呼んでいる。
◆蘭信三編著,2009『中国残留日本人という経験』
6.「二世」・「三世」などの呼称
「中国残留日本人」らは、一世と呼び、その子供世代を二世、孫世代を三世と呼ぶ。
移民研究では国境を越えて移動した者から数えて一世、子を二世、、、としているが、「中国残留日本人」/「中国帰国者」においては中国に残留した日本人を一世として、その子を二世、孫を三世と呼ぶ。中国「残留」という歴史を基準とした世代の数え方である。
7.「満洲国」/「満洲」
「満洲」とは広く、現在の中国東北部を指す歴史用語である。常用漢字として広く目にするのは「満州」という言葉だが、歴史用語としては、「満洲」を用いることが多いものの、指しているのは同じ地域である。
日本は、日露戦争(1904~1905)の勝利後に現在の旅順・大連を中心とした関東州の租借権、南満州鉄道株式会社の経営権などの権益を獲得していた。それに伴って、多くの日本人が「満洲」へ渡っていくこととなった。その後1931年に関東軍が「満洲事変」を起こすとラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀を担ぎ出し、1932年に「満洲国」という日本の傀儡国家を「建国」した。
8.「満蒙開拓団」
1936年、世界恐慌によって不況だった日本社会は、農村の経済立て直しや、内地の食料不足を解消するべく、「満洲農業移民二〇ヵ年百万戸送出計画」が国策の一つとして打ち出された。それにより、「満洲」と現在の内モンゴルの地域(蒙古)に日本内地から農業移民が送出されていったが、この背景には、ソ連や現地の中国人に対する治安維持という狙いもあった。日本敗戦までに、約27万人が満蒙開拓団として農村部に渡った。
9.「大陸の花嫁」
「満洲農業移民事業」が進められる中で、男性移民たちは「満洲」へと渡っていった。「満洲」へ渡ることを「渡満」という。
マイナス30度が日常である「満洲」において、「入植」した男性たちの多くは、アメーバ赤痢などの病気にかかるなどし、退団者が続出した。こうした不安定な状況を打破させるには、彼らを支える存在である「花嫁」が必要であるとして、日本内地から、大陸へと渡る「大陸の花嫁」を送出する計画が出される。
彼女たちは、開拓民の妻として、新たな世代を産む母として、そして現地の中国人の抗日感情を抑える存在としての役割を期待されていた。
◆小川津根子「大陸の花嫁」植民地文化学会・東北淪落一四年史総編史『<日中共同研究>「満洲国」とは何だったのか』
10.引揚げ
日本の敗戦に伴って、大日本帝国の植民地や、占領地で暮らしていた日本人は、日本内地へ戻ることとなった。それを引揚げという。
特に旧「満洲国」からの民間人の引揚げは、1946年から1950年までの前期集団引揚げ、1953年から1958年の後期集団引揚げ、1959年から1971年までの個別引揚げがある。ここで日本へ引揚げている人々は引揚げ者と呼ばれる。また、メディアなどでは、「引き揚げ」としていう用語が広く用いられているが、資料用語としては「引揚」が正しく、いずれも同じ事象を指している。
◆南誠,2016『中国帰国者をめぐる包摂と排除の歴史社会学』明石書店
